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September 26, 2019

町工場の娘4(^^;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;

 

経験者が語る“下請けいじめ”の実態。不当な減額、買い叩き、タダでやり直し要求は当たり前

https://hbol.jp/141578

過去数回に渡り、筆者の父が経営していた工場を通じて世の町工場が抱える問題をいくつか取り上げてきたが、今回は企業間で生じる代表的な問題の1つ、「下請けいじめ」について綴っていこうと思う。  筆者が父の工場で働き始めたのは、大学の卒業式を待たずしての頃だった。  学校から家に帰るよりも近かったため、小学生の頃から工場に通い、職人の働く姿を間近で見てきたが、「見る」と「働く」とでは、もちろん次元が全く違う。  社会経験もほとんどないまま飛び込んでしまったゆえ、正直、“何が分からないのか”が分からず、職人、取引先、営業、両親の間で、とっかえひっかえ問題を抱えてはフルスロットルで空回りする生活を続けていた。にもかかわらず、「若いから」、「性別をハンディにしたくないから」という意気込みだけは無駄に強く、今考えても当時は今以上に余裕も可愛げもなかった。  そんな中、父の工場には年に数通、「親事業者との取引に関する調査について」という書類が中小企業庁からやってきていた。見ると「下請け企業を守るため」なる内容のことが書いてある。  しかし、毎日空回っていた入社当初の筆者にとって、こういった国からの書類や手紙の対応などは、正直なところ煩わしい雑務。期限内に提出せよという文言に、「おい、国まで私の仕事を増やすのか」と、机の“未処理箱”に放り込んでは、期限ぎりぎりになって当たり障りのない回答をして返送していた。  が、徐々に自分の立場と工場の状況が把握できるようになってくると、ようやくこの書類が少なくとも自分に味方するものであること、そしてその内容と現状の一致から、自分の工場が「下請けいじめ」を受けている只中にあることに気が付く。  その書類の回答用紙や質問冊子に添えられた送り状には、世話になっていた親事業者(元請け企業)の名前が1通につき1社、ダイレクトに書かれてあり、冊子にはその企業に対する質問が50問ほど羅列してあった。  一瞬、「この会社、なんか悪いことして国に目をつけられたのか」と思ったが、送り状をよく読むとそうではないようで、この書類は、親事業者が中小企業庁に提出した「下請事業者名簿」を基に無作為に選ばれ送られてくるもの、そして、その親事業者に下請法上の問題が認められたか否かにかかわらず調査が実施されることを知った。  回答期限を設けてはいるものの、下請け側には提出義務は存在しない。質問内容のほとんどが金銭や納期に関わることで、発注内容を書面に残しているか、期日通りに支払いされているかなど、どれも元請けが下請けに不当な扱いをしていないかを細かく問うものだった。

 

 

 日本には、下請法という法律がある。正式名称を「下請代金支払遅延等防止法」といい、先述したように親事業者の一方的な都合から下請け企業を守るための法律で、親事業者に対して「義務」と「禁止事項」が細かく定められている。公正で自由な競争を守るための法律として知られる「独占禁止法」では対処できない、末端企業を保護するための補完的法律だ。  下請法が適用される業者かは、事業者の資本金額や職種などによって決まる。代表的なのが製造業で、父の工場のような、大手のくしゃみで大風邪を引くほどの弱小町工場にとっては、格好だけでも国が「マスク」になってくれることは心強かった。  そんな下請法を通して父の工場を見た時、取引先数社から「減額」と「買いたたき」、そして「不当なやり直し」の項目に該当する行為を受けていたことが分かった。父の工場は、得意先が作った金型を預かって研磨する、いわば「技術業」。それゆえ、元請けにとっては値段を調整させる言い訳が立てやすく、不当な値下げや返品などの強要が頻繁に行われていたのだ。 「減額」とは、文字通り支払い金額の減額を強要する行為だ。下請法では、下請事業者に責任がないにもかかわらず、親事業者が発注後に代金を減額することを禁じている。  父の工場は長年、ある取引先から彼らの言い値で仕事を受けており、さらには締日後に「月予算がオーバーしたから10%割引した請求書を再送するように」と強要されたことも度々あった。11500円で購入させられていたその会社専用の請求書の束を、倉庫の棚奥にしまいながら、「同量の仕事くれるんやったら、こんなもん印刷追いつかんくらい買うたるわ」と皮肉る父親が、なぜかかっこよく見えたのを覚えている。 「買いたたきと」は、市場価格に比べて著しく低い下請代金の額を不当に定めることで、筆者の入社当時、訳あって混乱していた工場の弱みにつけこむ形で、通常の3分の1の価格で仕事をさせられていた時期があった。

細かい指示にミスが出ないように、金型には色分けしながら引取りの際に全て書き込む

 中でも「不当なやり直し」は、技術を売る企業にするとかなりやっかいで、父の工場の場合納品した金型のどこにも傷はなく、検品にも通った後にもかかわらず、電話で「今再確認したら傷がある。これでトライ(成形)してみるが、もしNGだったらやり直せ」と一方的に言われることが頻繁に起きていた。結局一度使った金型は全体に傷がつくため、元々傷があったなかったに関係なく、「やっぱりNGだった」のひと言で無償のやり直しをさせられることになるのだ。  こうなれば、下請けは取引先のいいなりになるしか術がない。中小・零細の下請け企業は大手と違い、1つの契約が突然切れると、たちまちに経営が立ち行かなくなることが多々あるため、下請けは注文書に書いてある納期や金額よりも、結局取引先の顔色を見ることになる。

「他の会社はタダでやりなおしてくれる」

 当時、威勢の良かった筆者はこれらを埋め合わせるべく、自分の持ち合わせる最大の営業スマイルで「少しでもいいので工賃をくれないか」と何度か取引先に頼んだのだが、「他の会社は無償でやっている」「今後は他を探す」と言い放たれるばかり。  溜まったストレスは、1人になれる帰路のトラック車内で、彼ら担当者にあだ名をつけて発散させていた。手に油が少しでも付けばすぐに洗いに行って当分帰って来ない購買部の担当者には「ラスカル」、完璧な仕事にも毎度必ず首をかしげて無言の保険をかけてくる検品担当者には「慢性肩こり」。共感してくれるのは、工場で働く営業マンだけだったが、それでも幾分気は晴れた。  前出の「親事業者との取引に関する調査」の書類に回答した内容は、一切親事業者には伝わらないという。が、いわゆる「チクり」のようで気が進まないことに加え、逆恨みなどを気にして泣き寝入りする下請けも未だ少なからずいる。  当時、筆者も「どうせこんな紙切れに正直なこと書いたところで、元請が変わるワケないじゃないか」という思いがあった。というのも、こういう「下請けいじめ」をするのは、「下請法」の存在を知る元請け上層部ではなく、その会社の第一線で働く工場マンで、下請法の存在や詳細を知らない作業員がまだまだ多かったのだ。  それに彼ら工場マン自身も、上からの圧力に毎日押さえつけられながら仕事をしていることは斟酌すべき点だろう。  世界屈指の「縦社会」国家である日本。尊敬語や謙譲語を操り、役職や位で呼び合う社会では、下にいけばいくほど時間もコストも不足し、末端に満たされるのは「変更」や「中止」などで生じる問題ばかり。  ハンコがないと動けず、逆にハンコのせいでフレキシブルに対応できない体制が出来上がっている。上司にせがまれ、短納期・低賃金を現実化しようと思えば、彼らの「下」に位置する下請けに矛先を向けるしか道がないのかもしれない。下請けも大変だが、大手の第一線現場従事者も大変だったんだなと、工場を離れ、「上下」から解放されて分かるようになった。  昨年度、公正取引委員会が行った下請け企業に対する親事業者への勧告や指導の合計は、過去最多の6,603件にのぼる。また、今年の1月からは「下請けGメン」なる調査員による監視やヒアリングを強化させ、取引の公正化を図ることで、中小・零細企業の経営の安定と賃上げにつなげる動きも活発化し始めた。  フットワークの軽い中小・零細企業は、日本の技術発展の鍵をにぎっている。目先の利益だけで、下請けをぞんざいに扱うことは、大手企業にとっても日本にとっても、決していい結果を生み出さない。下請法の存在や内容を会社全体に周知させ、守らせることが、親事業者が今後「大風邪」を引かないための大きな予防策になるかもしれない。 <文・橋本愛喜>

 

 

 

 

ブラック企業にならざるを得ない中小・零細企業の現実を世間は知っているのか?

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もぬけの殻になった、筆者が勤めた町工場。工場の存続には、あまりに過酷な現実があった

前回までの工場シリーズでは、筆者の父親が経営していた零細工場を通して、立場の弱い下請け企業の現状を綴ってきた。様々な問題を抱える日本の中小零細企業だが、今回から数回に分け、下請けであるがゆえに生じる社内問題から、家族経営の内情、工場が閉鎖するに至った経緯などを綴っていこうと思う。  2013年の秋、1つの町工場が静かにシャッターを下ろした。倒産したのではなく、意思を持っての廃業だった。  製造大国であるこの国からすると、元々存在していたのか分からないほど極小で、当時の得意先も今頃は取引していたことも忘れているであろう「いち下請け工場」であったが、筆者にとっては幼いころから家庭と変わらないかけがえのない存在だった。今でもあの音、匂い、油にまみれた父親や、彼を必死でサポートする母親の姿を鮮明に思い出すが、それはもう今後、記憶の域を脱することはない。  大学を卒業する頃、訳あって当時夢見ていた道を諦め、筆者はこの工場に正式に入社することになった。  昔から見てきた視点とはやはり全く違い、社会経験ゼロの若い女性が、男性職人ばかりの製造業界で経営側として働くのは正直多くのハードルがあったのだが、中でも最も苦労したのが、職人が提供できる技術力・量と、取引先からのニーズをマッチングさせることだった。  前回から述べている通り、父の工場の主な業務内容は、金型の研磨業だった。自動車のプラスチック部品を製造する際に使われる金型を、砥石やペーパーやすり、ダイヤモンドペーストなどで磨き、鏡のように滑らかにする。  1つの作業を任せられるのに10年を要する職人業だ。自動車産業には欠かせない技術だったため需要はあったが、工場最盛期でも従業員は35人ほどしかいなかった。それゆえ、1人にかかる仕事量や責任の比重は、大企業のそれよりも相当大きかったと思う。  昨今、深刻な社会問題となっている「ブラック企業」だが、筆者が工場で働いていた当時には、そういった言葉はまだ浸透していなかった。

 

日本の法では多くの企業が「ブラック」になる

 が、今あの工場が存続していれば、正直「ブラックだ」と言われていたかもしれない。それは経営の一端を担っていた筆者の力不足でしかなく、最後までついてきてくれた職人には今でも感謝と詫びの念しかないのだが、こうして父の工場がなくなり、日本の中小零細企業を客観的に取材・分析するようになると、多くの下請け工場が同じように「ブラック企業」にならざるを得ない状況へと追いやられていることに気付かされ、引き続き胸が痛むのだ。  下請け企業がブラック企業にならざるを得なくなるのには、間に挟まれやすい立場に原因がある。父の工場で起きた事例から見てみよう。  父の工場は創業以来、多くの大手工場から「浮気」されることなく仕事をもらっていた。その一番の理由は、どんな時でも依頼を断らず、与えられた納期を守ってきたところにある。下請けが大手と信頼関係を築き上げるのには最もシンプルな方法であり、そして最も難しいことでもある。  自動車業界には製造ラインにおける独特の波や、突然の仕様変更などがあり、繁忙期と閑散期の差が著しく、その仕事量は1か月先でさえもなかなか読めない。大手が休む盆や正月、大型連休には普段の2倍以上の仕事が舞い込むが、先述したように、職人になるまでには相当な年数を要するため、繁忙期だけ即戦力になる職人を増員するというのは物理的に不可能だ。結局はその期間、1人が2倍以上の仕事をする他に術がない。  それが一転、大手の自動車製造ラインが止まり閑散期に入ると、今度は構内の掃除や草むしりをする日が続く。活発に動くのは、営業担当の持つ携帯電話の発信履歴のみ。経営側の立場としては、むしる草が生えてくるのを待つ時ほど、精神的に辛いことはなかった。  こうして、繁忙期には工場を休みなくフル稼働させて得意先の機嫌を維持し続け、閑散期には35人もの雇用を維持し続ける。どちらもおろそかにすれば、仕事は簡単に他社に流れるのだ。  それでも現場が長い熟練職人には技術や経験があるため、自分が引き受けた仕事は、どんなに残業しようが最後までやり通すというプライドと、「下請け」という立ち位置に対しての理解があったのだが、入社して間もない新人の中には与えられた納期の重みを理解できず、残業に対して不満を持つ者もいた。

 

 

残業が増えれば労基法は守れない。労基法を守れば、納期が守れない

 経営側からすると、職人育成には長い時間と賃金を費やしているため、途中で辞められては今までの努力が無駄になる。  昨今の若者の仕事に対する意識の変化も相まって、新人育成には本元の工場運営とはまた別の神経を使っていたのだが、そんなある日、1人の新人が残業時間に対する不満を経営陣ではなく労働基準監督署へ相談していたことが分かり、工場が大きく揺れた。  当時、手一杯だった筆者が思っていた気持ちを率直に、つつみ隠さずに言えば、こうだ。 「職人の残業が増えれば、労働基準法が守れない。労働基準法を守れば、納期が守れない」  長期的解決策として入れた新人は、不慣れな仕事に残業時間も手当も増え、給料はもはや熟練職人と変わらず。  得意先にでさえ弱音を吐けない経営陣とは対照的に、自分の不満を国に訴える新人に、持って行き場のないやるせなさに打ちひしがれた。  結局父の工場は、法令違反に値せずとも、より改善した方が良いと思われる際に交付される「指導票」を受けるに至った。  しかし、体力のない中小零細企業は、これがきっかけで経営状況が悪化し、一気に倒産へと追いやられることもある。板挟みに疲れ果て、父のように自ら会社を閉める道を選ぶ経営者も少なくない。自分の会社に見境なく「ブラック」のレッテルを貼ることは、挙句自らの首を絞めるばかりか、再就職の難しい年齢に差し掛かっている熟練職人をも巻き添えにすることになりかねないのだ。  経済は生き物である。今目の前で起きていることが全てではない。父が身を置いていた製造の世界だけでなく、どんな業界にもそれぞれ仕事の波がある。波を作り出す発注元に対し、その波長を予測・計算し、荒波に備えるのは受注側の責任だ。  しかし、押し寄せる波が大きすぎれば、中小零細企業はかじ取りができず、やがて海底へと沈んでしまう。  過重労働などの違法行為は決して正当化されるべきことではない。が、会社の存続をかけたブラック企業には、利益追求型のそれとは一線を画した何らかの対応や救済が必要である気がしてならない。ブラック企業にならざるを得ない状況下に置かれている企業があるという現実、法を守ることで潰れていく会社があるという現実を見過ごし続けていては、日本の技術は衰退の一途をたどるばかりだ。 <文・橋本愛喜>

 

 

 

 

 

 

 

 

ワンマン経営の零細工場が抱える“爆弾”は、いつか弾ける

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 前回は、ブラック企業にならざるを得ない中小企業の内情を紹介したが、父が工場を閉めることになったのには、この他に2つの要因が存在する。そのうちの1つは、「ワンマン経営のもろさ」だ。  筆者は大学生の頃、工場を継いでほしいという父からの真剣な頼みを、2回断っている。幼い頃から工場に育てられてはきたが、今まで目の当たりにしてきた男社会に入る覚悟が当時なかったことと、若いなりの夢があったことが大きな理由だった。  それでも結局筆者は、大学卒業を待たずして、父の工場へ入社することになる。今回は、当時父の身に起きた事例に照らし合わせながら、ワンマン経営がゆえに起こり得る町工場の問題を綴っていこうと思う。  大学の卒業式を1か月後に控えたある寒い日の朝、母親との無駄話を終え、自分の部屋に戻る階段を上がっている時、家の電話が鳴った。自営業の家庭にはよくある話なのだが、会社の始業時間前後にかかってくる電話には、毎度緊張させられる。そんな中でも、その日のベルはなぜか特別に胸騒ぎがした。  ベルが止みしばらくすると、母の叫ぶ声がした。「父ちゃんが倒れた」という。慌てて車で会社に向かう筆者の横を、1台の救急車が走り去るのを見て、ハンドルを握る手が震えた。  父が集中治療室にいた1か月、会社は大荒れだった。過去に突然の独立騒動があって以来、技術や経営のノウハウを外に漏らさぬようにと、工具を注文する店や、各取引先の受注担当者などといった企業秘密は、彼の頭の中にあったのだ。いわゆる完全なワンマン経営だったのだが、こうした父なりの会社を守る対策が、今回逆に仇となった。  管につながれた父にはほとんど意識がなかった。筆者と母は、社長室の「痕跡」を頼りに何とか社長業を引き継ごうとするが、そもそも何が分からないのかが分からない。それらを見出す唯一の方法は、問題がそれぞれ深刻化し、表面化してくるのを待つことだった。  注文先の分からない工具は、集中治療室へ持って行き、「父ちゃん、これどこで買うん?」と、ダメ元でちらつかせてみるが、「看護婦さん可愛いね」にも反応しない父に、こんな状態にまでなっても仕事をしてくれると思った自分が滑稽に思えた。

 

取引先には「父は長期海外出張中」と告げた

 最初に迫られた選択は、得意先へ報告するか否かだった。極小町工場の社長が倒れたとなれば、取引先が一気に離れていくことは目に見えている。  話し合いの末、母と筆者、営業らは「社長は長期海外出張中でなかなか連絡が取れない」と、今思えば明らかに無理のある対応をすることで意見を合わせた。  実際、父が倒れる2か月前、得意先を追いかけるように創った念願の海外支社が操業したばかりで、当初は取引先も納得していたが、それまでの取引先とのやり取りも、やはり全て父が担っていたため、しばらくすると「直接話がしたい」という連絡がくるようになる。  次に襲ってきた問題は、受注した仕事の見積りだった。鉄の硬さや金型の形状まで、1つとして同じ条件のない依頼を、父は今まで、経験と各取引先の相場をもって1人で見積っていた。それが全くできなくなり、取引先には「社長が不在で見積もれないからご予算伺えますか」と対応するしかなかった。  それは以後、同業界での無駄な価格競争を生むことになる。  唯一救いだったのは、当時会社にいたヤンチャな従業員35人が、「会社を潰してなるものか」と活気立っていたことだった。未だかつて見たことがない団結力で、今まで以上に真面目に仕事に取り組んでくれた。1人ひとりが自分のできる最短納期を営業に伝え、社長の仕事を見よう見まねで引き継ぐ。父親がいかに信頼されていたかを改めて思い知った瞬間でもある。  父の発症した病気は、くも膜下出血だった。寒いトイレで倒れたものの意識を取り戻し、社長室まで這って戻ると、内線で職人に救急車を呼ぶよう伝え、その後自ら家に電話をしてきた。そのため処置が早まり、幸い体に麻痺は残らず、1か月後には一般病棟に移ることができた。  しかし、そのころから家族にはある不安が募るようになる。父の記憶力が弱いのだ。一過性のものだと信じていたが、結局父には「高次脳機能障害」という後遺症が残った。人により症状は様々だが、父の場合、記憶能力の欠如と、著しい感情の起伏が顕著に表れていた。  高次脳機能の記憶障害は、健忘症と違い、見た目や自尊心は「元の社長」である。人と会話する仕草も健常者と変わらないし、社会復帰にも大変意欲的だった。が、やはり新しい記憶ができない。かかってきた電話に対応できても、切った直後に誰と話していたか忘れてしまう。  それでも今まで散々心配させてきた取引先に、社長の健在ぶりを証明する必要があったため、父を電話に出さないわけにはいかなかった。捻り出した解決策は、電話にテープレコーダーを繋ぎ、後で筆者が内容を把握すること。ところがある日、得意先から電話がきた際、「録音」ではなく「再生」ボタンが押され、過去に取った会話記録が通話中に流れてしまう事態が起きる。これにより、本意ではない噂が広がり、得意先から不信感を抱かれたこともあった。

 

「俺だって好きでこんなんになったんやないわい」

 幸か不幸か、先述通り父には自尊心が残っていた。記憶のできない自分を認識できることは、本人にとって辛かったに違いない。  そんな父の状態を分かっていたにも関わらず、未熟だった筆者は、大学卒業後に決まっていた留学が流れ、やりたくもない仕事をやらされているという現状と、2分おきに同じことを聞いてくる父に苛立ちが募り、ある日「同じことを何度も言わせるな。仕事の邪魔だ」と言い放ってしまう。  その時漏らした父の言葉は今でも忘れられない。「俺だって好きでこんなんになったんやないわい」。  跡を継ぐことを頑なに拒んでいた筆者に、初めて「限界がくるまでやっていこう」と決心させた瞬間だった。筆者が大型自動車やクレーンの免許を取ったのも、この頃である。  こうして一通りの失敗を経験し、仕事の流れを把握するようになった頃、新たな問題が勃発する。  今まで頑張ってきてくれていたある職人が、父の後遺症から会社の存続に危機感を抱き、会社を離れていったのだ。  工場に残った不安感は感染し、離職の連鎖が生まれる。筆者もできる限りのことをしたつもりだったが、彼らにも生活や家族があり、不安になる気持ちは十二分に分かっていたため、無理に引き留めることもできず、ただただ自分の不甲斐なさを悔やんだ。  それでも会社は続けざるを得なかった。海外支社を創った際にできた借金もあれば、未だ残ってくれている従業員もいる。皆それぞれが必死だった。  その後、海外支社の閉鎖、円高やリーマンショック、下請けいじめなど、越えなければならない山は続いたが、父が倒れて10年余り、なんとか借金を完済し、残りの職人らが再就職先を得たのを見届けると、父の町工場は30年の歴史に幕を閉じた。  中小零細の町工場には筆者の父のように、会社立ち上げ当初から自分の経験と勘、人脈だけでやってきたワンマン経営者が多い。それゆえ統率力が強く、「ワンマン経営=独裁」と捉えられがちだが、必ずしもワンマン経営が悪いわけではないと筆者は思う。特に、大企業よりも従業員1人ひとりにかかる仕事量や責任の比重が大きい下請け企業には、ワンマンでないと乗り越えられない危機や壁が幾度となく襲ってくる。  しかし、ある程度会社が成長・安定してきたならば、経営方針を徐々にチーム型へと移行させることが、トラブルが起きた際、会社存続の鍵になるのは確かだ。工場閉鎖後、整理していた社長室の棚から、父が覚えたてのパソコンで入力した数十枚に及ぶ「技術マニュアル」が出てきた時には、「ちょっと遅かったな」と思わずにはいられなかった。  あの時、筆者の見た従業員の団結力は、日本のモノづくりの現場がまだまだ捨てたものではないことを教えてくれた。日本の技術を支える中小零細企業。そこで働く経営者と従業員が、互いにより尊重し信頼し合うことで、無駄に消えずに済む工場は増えると、筆者は信じている。 <文・橋本愛喜>

 

 

 

 

 

年間7万社が後継者不在により廃業。日本の町工場も例外ではない

2017.07.18

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フォームの終わり

橋本愛喜

廃業を決めた工場最後の日。がらんどうになった工場を背に撮った筆者の家族写真(筆者は右端)

 

総務省が発表した平成27年度の個人企業経済調査によると、後継者が確保できていない日本国内の製造企業は、81.1%にもおよぶ。事業主が60歳以上の割合は76.3%。団塊の世代が70代を迎える昨今、日本のモノづくりを支える町工場の後継者問題は、日々深刻化の一途をたどっている。  娘である筆者がこういうのもおかしな話だが、父の経営していた工場でも、この後継者問題は最後まで解決できなかった。町工場の抱える社内問題について綴った前2回の「労働基準の変化」、「ワンマン経営のもろさ」に続き、今回はこの「後継者問題」について“継ぐ立場の側”から綴っていこうと思う。

零細工場の跡取り娘と知られるや、オトコたちは全速力で逃げて行く

 親が中小零細企業を経営していると、「後継者」として最初に名が上がるのは、否が応でも、その子どもである。幼い頃から自営で働く親、または両親の姿を見ていると、子どもには「自分もいずれこの仕事をする時が来るのだろうか」と考える時が必ずやってくる。  ところが、そんな子どもが社会人になろうとする頃には、環境も考え方も大きく変わっていることが多い。  必死で働いてきてくれた親のおかげで、筆者は金銭的には比較的余裕のある暮らしをしてこられたほうだと思う。学生の頃には様々な経験をさせてもらい、大きな夢を抱くようになった。  が、親が事業をしている子どもには、その夢の矛先が親の事業ではないという皮肉な現象が起きることが多く、例に漏れず、筆者の夢の矛先も、残念ながらやはり“工場”ではなかった。ゆえに、学生時代に父からの「継いでくれないか」という願い出を2回真面目に断っていたのだが、それでも大学卒業間際に工場へ正式に入社することになったのは、前回述べた経緯の通りだ。  父の営む工場には、物理的に力を要する工程が多く、筆者の中で「自分は女性だから継げない」、「継がなくてもいいと両親も言うだろう」という意識が幼い頃からどこかにあったのかもしれない。  やはり両親も、自分たちの仕事は女性が継ぐものではないと十分に分かっていたようで、厳密に言えば、昔から彼らには「筆者自身に」というよりも、「筆者の未来の旦那」に継いでもらおうという魂胆があった。  筆者がトラックで得意先に仕事を引取りに出かける際、母親が言い放つ「いい男も一緒に引き取って来い」という言葉に、毎度ギアをバックに入れても足りないくらいドン引きするも、病気になった父を想うと「そうなったらそうなったで、まあいいか」と心のゲートを開いた時期もあったのだが、女っ気のない性格はもとより、「あのヤンチャな社長の娘」だと知られるや、“ゲートの向こうのいい男”は、ギアをトップに入れても追いつかないくらいのスピードで逃げてゆく。  それゆえ以前話したように、筆者に声を掛けてくるのは、結局怖いモノ好きな5060代の長距離トラックドライバーしかいなかった次第である。

金型業界に衝撃を与えた3Dプリンタの導入をあえて提案してみるも……

 こうして、2代目として両親と供に工場を経営していくことになったのだが、正直、両親と働くことほど辛いことはなかった。  筆者の家族は、昔から「馬鹿」が付くほど仲が良かった。極太の大黒柱だったヤンチャな父に、ド天然の母と4歳差の妹。皆が互いを絶妙なバランスで支えながら暮らしていた。病に倒れた大黒柱を突然支えなければならなくはなったが、筆者は幼い頃から両親の働く姿を見ていたことで、社会経験がなくてもすんなり工場には順応できると思っていた。  ところが、いざ両親とともに働いてみると、全くしっくりこない。最初はただただ筆者の経験不足からくるものだと思っていたのだが、いずれその原因が、「新旧の意見の食い違い」にあると気付き始める。  父の病気後、異常なまでの円高や、職人の減少などで、工場が不安定の只中にあった頃、世間は3Dプリンタの登場に湧いていた。しかしその一方、金型業界の一部では「これまでか」という絶望感が漂い、多くの関係者が「金型の終焉」を予感した。3Dプリンタは、金型がなくても図面さえ描けてしまえばその場でプラスチック製品が出来上がってしまう。つまるところ、金型で食べている多くの職人が今後、ぞくぞくと路頭に迷う懸念があったのだ。  当時、現場の新人育成に頭を悩ませていた筆者は、これをある種の「チャンス」だととらえていた。金型研磨を生業とする父の工場には、金型と職人が存在しなければ仕事にならない。この両方が安定しないのならば、3Dプリンタを量産能力が兼ね備わる前に導入し、新しい活路を見出すべきだと考えたのだ。  しかし、今まで「砥石一本」でやってきた両親にとって、あの機械はただの「びっくり箱」でしかなく、一台試しに導入してみようという筆者の提案は、最後まで通らなかった。何度も説明し、説得したが、「新人育成があなた(筆者)の仕事」と、彼らが今までの方針を曲げることはなかった。  経験と技術だけでやってきた古い体制の町工場にとって、新規事業への参入は、培った経験に対するプライドや、失敗した時のリスク、軌道に乗せるまでの労力など、多くのハードルを越える覚悟が必要だったのだ。  このように、先代は「培ってきた経験」を、次世代は「チャレンジ精神」を切り札とするのだが、これが面白いほど真逆であるがゆえに、筆者と両親は、ぶつかることが日常茶飯事となっていった。同じ空間で新旧が議論しても、話はまとまらない。結局平行線のまま家に帰っても、10分前まで一緒だった両親には「ただいま」を言わなくなる。朝食ではその日のスケジュールを確認し、夕飯には工場に引き続き、意見をぶつけ合う毎日。  それゆえ、筆者は異常なまでにトラックで得意先に行くことが好きになっていた。

 

フォームの終わり

 

中小零細の「世代交代」に現状維持はありえない

 それでも周囲には、親子で方針が違うところを見せないように努めなければならない。現場で働く従業員に、こういった意見の食い違いや言い合いを見せることは、彼らの士気を下げるだけだからである。  規模も業種も全く違うが、数年前、某大手家具販売店で起きた騒動がいい例だろう。親子間での経営方針の違いは、必ずや従業員を巻き込む。その家具販売店の騒動があった頃には父の工場はすでになくなっていたが、筆者は他人事のようには思えなかったと同時に、あの娘さんの意志の強さには、いい意味でも悪い意味でも驚かされた。  中小零細企業での後継者問題には、親子親戚間でなくとも、ほとんどの場合に「世代交代」が伴う。企業形態によっては、2世代分の開きがあることも少なくない。さすれば、「経験」と「時代の流れ」にズレが生じやすくなり、経営の失速に直結する問題に繋がりかねない。  若い世代に継承すべき企業の伝統や風習はもちろんあるところだが、若い世代の新しい風を積極的に取り入れ、社内の新陳代謝を促さなければ、時代の流れに取り残され、あっという間に廃れていく。「世代交代」では、いい意味でも悪い意味でも、「現状維持」という現象はなり得ないのだ。  父の工場は、この他にも様々な要因が絡み合い、結局廃業の道を選んでしまったが、好業績、独自技術が伴う事業には、「売却」という選択肢もあるし、現場の優秀な社員を社長に昇格させる方法もある。これらの道も、決して一筋縄ではいかないが、早い段階での準備と対策によって、次世代につながる企業技術も増えるはずだ。  後継者の確保ができずに廃業する会社は、毎年約7万社にも及ぶ。日本の技術力の底上げが求められている中、引き継げずに消えてゆく技術がこれほど存在するのは、あまりにもったいない。 <文・橋本愛喜>

 

 

 

 

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